新約聖書の中心聖句は、『汝らキリスト・イエスの心を心とせよ』

▶︎ 主を思う・・

<聖書のオリジナルはない>

私たちの手元にある「聖書」は、みんな翻訳本です。それは、底本といわれるものからその国の言葉に翻訳されたものです。聖書が“自分が読める言葉に翻訳された”というのは、すごいことで、宗教改革時代になされた最大の偉業と言えます。
その大本(おおもと)になった“底本”と言われるものは、旧約聖書は、ヘブル語で書かれた写本、新約聖書はギリシャ語(アラム語)の写本が残されていて、それが各国の言葉に訳されているわけです。その写本もいろんな人の手を通っているので、ところどころ差異が見られますが、主な記述は同じなのです。
そういう意味では、長い人類の歴史を通ってきて、多くの人の手によって書き写されてきた“神さまの言葉”としての、信憑性(しんぴょうせい)(真実性)があると言えます。

<旧約聖書が伝える神さまの教えは何だろうか>

旧約聖書には、神さまの律法が書かれていて、それを守らなければ処罰されるという怖い、きびしい書物のように思われている方がおられるかも知れませんが、そうではありません。
『律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです。』(ガラテヤ書5章14節)とありますように、私たちが愛し合うことができるようにということが書かれています。

<新約聖書が伝えようとする教えは何だろうか>

では、新約聖書27巻を集約すると、どういうことなのでしょうか?私は、ピリピ書の2章5節と答えます。それも数ある訳本の中で、日本語の聖書の中で、最も適切に訳されているのは文語訳だと思っています。そして、この文語訳を調べていくと、これが中文(中国語)の聖書からの直訳なんですね。

<「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」>

「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」と訳された、この言葉は、新約聖書の無数の戒め・勧めを凝縮した言葉だと私は、思っています。
もし、イエス・キリストを信じるものが皆“キリスト・イエスの心”を理解し、実行していくならば、この地は“主の祈り”にあるように“神の国のようになる”ことでしょう。でも、そうは簡単にいかないようです。

<中国語聖書から日本語の文語訳へ>

この言葉は、そのギリシャ語の底本から「你們當以基督耶穌的心為心」という中国語に訳されました。そして、その中国語の聖書から日本語の文語訳が生まれました。
ところが、その文語訳以降の口語訳、新改訳、新共同訳は、“教会内の協調”を意味しているように訳しなおしているのです。
たしかに、この文章の背後には、教会内の対立・分裂ということがありますが、お互いの“人間的譲歩”によって、教会内の問題が解決されると使徒パウロが書いているという理解はあまりにも浅薄だと思います。

<キリスト・イエスの心とは何か=従順>

使徒パウロは、この“キリストの心”の続きとして、(なぜなら)“主イエス・キリストがいかに従順であったから”ということを記しています。
つまり、イエスさまが、“人”としてこの世に生まれ、十字架にかかられたのは、父なる神さまの御心だった。そして、イエス・キリストは、ただただ、父なる神の御心を遂行していっただけなのだということが言われているのです。
そういうイエスさまを見習いなさいと言っているのです。(勿論、それをなさせたのは、“父なる神さまへの愛”からですが。)
この従順は、盲目的な従順ではなく、主体的な従順なのです。父なる御神のみ心を理解し、賛同し、実行された、というプロセスが必要なのです。
『それゆえ、神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。』(ピリピ2章9節)

<救いの達成>

主イエスは、私たちに模範をしめされました。使徒パウロも主イエスに倣う者でした。そして、そのパウロは、「・・・わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」。(ピリピ2:12)と勧めています。
パウロは、自分がいなくなっても、ますますイエスさまを見習い、父なる神に従順であれ、と語っているのです。そして、それが私たちの救いの達成になるのだと言っているのです。
ロバート・イー




にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。よろしければ応援クリックをお願いします。


▶︎ 主を思う・・

Posted by SANBI.us